自由帖

テルさんの「旅」ある暮らしの最近のブログ記事

冬の新彊シルクロードの旅(8)

食べ物、飲み物

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中国国内ではあるが、イスラム圏なのでアルコール類には期待せず、ビール程度が飲めれば良しとしていたが、初日の晩から葡萄酒(あえてワインとは言わず)があると聞いて驚喜した。私にとって旅行中に美味い酒が飲めるか否かは、その旅行の充実感を決める重要な要素になっているからである。しかも、最初の夜に出された葡萄酒の名は「桜蘭」であった。味も香りもまあまあ。それ以外にも数種類の銘柄があり、私は、旅行中毎晩赤一本を注文した。

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 食べ物は期待以上であった。シシケバブやサモサの美味さは既に述べた。ナンも今や日本でも有名であり都会では食べさせる店もある。

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珍しかったには、ご飯と麺である。ご飯はポロと言って、タマネギのみじん切りを多めの油で炒めこれに羊肉、にんじん、米を入れて炊くウィグル族のピラフである。最後に干しぶどうも入れる。麺のほうはラグ麺というやつで、ゆでた手打ちの麺の上に炒めたトマト、ピーマン、白菜、羊肉をかけて食べる。何れも当地では日常的な料理であり、日本食にも近く何度食べても食傷しないのが有り難い。

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その他、トマトスープで食べるウィグル族の餃子。肉はもちろん羊肉である。チュルチュレという可愛い名が付いている。

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 野菜も、この時期にしては意外に豊富である。バスから畑を見ていてその理由が分かった。酷寒にもにも負けないような頑丈なビニールハウスがよく目に付いたからである。
果物は、何といってもハミ瓜が美味かった。色は良くないが味は甘すぎず品がいい。

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 今回ももまた、良い旅が出来た。ただ一つのことを除いては。実は、いよいよ最終日、今回も無難に旅を終えることが出来ると思っていたところ、ウルムチ空港へ着くや「今北京は猛吹雪、いつ飛び立てるか分からない」と言う。その瞬間から北京空港から羽田行きの飛行機に乗るまで48時間を、飛行機内および空港内に缶詰にされていたのである。しかしそれも、過ぎてみれば良き思い出のひとこまになるであろう。

冬の新彊シルクロードの旅(7)

故城

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桜蘭のように既に砂に埋もれてしまった故城も多いが、残っているものもある。我々はクチャでスバシ故城を、トルファンで高昌故城と交河故城を見学した。

 スバシ故城に着いた時には、既に日が落ちていて程なく暗くなってしまったが、丁度その日は満月。文字どうり「荒城の月」の下に見学をしたわけだが、ここの寺院は唐代のこの地クジ国の最大の仏教寺院ということで、玄奘三蔵の「大唐西域記」にも登場すると聞いて、仏塔の上から故城全体を眺め往時を偲んだ。

 高昌故城は紀元前1世紀の漢代から13世紀にモンゴル軍に滅ぼされるまでの間、新彊における政治・経済・文化の中心地の一つだったという。だから規模も大きく東西1600m、南北1500mの広さ。ここでは地元の農家の人が副業でやっているロバ車で見学した。建物は皆日乾しレンガ造りであり、それだけに崩れも激しい。玄奘三蔵が説法したという建物も見た。

 交河故城も大きい都市遺跡である。遺跡は高さ約30mの断崖上の台地に造られている。 要塞都市といった故城である。見張り台、中央大通り、仏塔・寺院跡、展望台、赤ちゃんの墓、官庁街などを時間をかけて見学した。
故城から対岸を見ると、日乾しレンガ造りの風通しの良い建物が並んでいるのが見渡せる。何かと聞いたら、この中にぶどうを吊して乾燥させ干しぶどうを作るということであった。ここトルファンはぶどうの産地であり葡萄酒も造られており良好中ずっとその恩恵にあずかった。観光シーズンになると、町中の葡萄棚通りではオープンカフェが開かれ賑わうのだそうだ。だが今はオフシーズン。観光客は我々だけだ。

冬の新彊シルクロードの旅(6)

千仏洞

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シルクロードは、仏教がインドから中国・朝鮮を渡り日本にまで伝わってきた道でもある。このシルクロード沿いに 仏教が栄えたことは、この地に千仏洞と呼ばれる仏教石窟が点在していることからも知れる。

 キジル千仏洞はクチャの町からガタガタ道を通りながら2時間位走ったところにある。中国で最も早く開かれた石窟群で、規模も敦厚・莫高窟に匹敵するという大きさ。川沿いに3、2kmにわたて236もの石窟が開削されているという。そのうち6つを見学したが、仏像は全くなく壁画を中心に見た。壁画も仏画についてはその目の部分を中心に削り取られてある。しかし、色彩はまだ鮮やかに残っているものもあり、破壊される前の美しさを想像することは出来る。

 この破壊は、言うまでもなく、この地がイスラム教国になってから、その根本的な教義である偶像崇拝否定を根拠として行われた。
破壊は、探検家によっても行われた。たとえばドイツの探検家スタインはこの地から多くの壁画を剥がし持ち去った。
さらに、もう一つの破壊があった。文化大革命時の宗教弾圧に基づく破壊である。仏教壁画に粘土を塗りつけ見えないようにしてしまったのである。いずれも、悩ましい問題である。

 クムトラ千仏洞もキジル千仏洞と比較的近い所にある。ここも大きな川の近くにある。ここは、入り口に管理人夫婦の住む番屋があり、そこのおじさんが、見学する石窟の鍵をいちいち開けてくれた。背も腹も大きなおじさんで愛嬌も良かった。もうここで36年間住んでいると行っていた。川沿いには砂ナツメという木が橙色の実を付けていてが、おじさんはその実をもいで「食べろ」と差し出したから食べてみたが、甘っぽくはあたが砂っぽい感じもあり、美味いものではなかった。

トルファンでは、有名な火焔山の横を流れる川沿いの断崖に造られたベゼクリク千仏洞を見た。ここもドイツの調査隊によって多くの壁画が剥がされ持ち去られてしまっていた。

冬の新彊シルクロードの旅(5)

タクラマカン砂漠

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タクラマカン砂漠は今回のツアーの一つの目玉であり、私もその横断に期待していた。私は、既にゴビ砂漠にも行っているし、サハラ砂漠にも触れているし、世界第二のタクラマカンは是非行ってみたいところであった。砂漠は天山山脈とコンロン山脈に挟まれたタリム盆地の中にある。日本がすっぽり入るぐらいの大きさ。降水量は年に何ミリといった超乾燥地帯。新しく造られた西域南道のホータンから西域北道のアラールまでホータン川に添って通じる第二砂漠公路を行った。全長430キロ。舗装も新しく多の一般道にはない快適さである。道路の両側には砂よけのために巾10m位に渡り葦が格子状に埋め込まれている。

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 途中、第一回目のトイレタイムでは砂丘に登って日の出を見、第二回目では、砂丘が地平線にまで延々と続く見晴らしのいい場所で降りて風紋の美しい砂砂漠を歩ったが、いずれも その荘厳さ、悠久さに心を揺さぶられた。幸いにして当日は無風状態であり、砂丘に座り息を止めるとそこは静寂に包まれていた。しかし、これが砂嵐の季節になるとどうしようもない凶暴さを発揮するということであった。

延々たる砂砂漠が尽きる頃になると、所々に古木が目に付くようになってくる。胡楊の木である。桜蘭など砂に埋もれた故城などにも使われている木である。写真にも撮ったが、砂漠の木とは思えないほど堂々として威厳のある木だった。

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バスに揺られながらこんな不毛の砂漠に何でこんな立派な道路を思ったが、ウィグル人のガイドの話では、このタクラマカン砂漠には大油田があり、天然ガスも豊富であり宝の砂漠であるということであった。これで疑問が氷解した。決してウィグル自治区のためを思って造ったわけではないのだ。過日の暴動の根っこもこの辺にあるのだろう。

冬の新彊シルクロードの旅(4)

バザール

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 旅行の大きな楽しみの一つはバザール見学である。バザールは市場のことだが、ペルシャ語からきているせいか、特にイスラム圏では市場と言うよりバザールと言った方がそのイメージに合う。ここも中国とはいえイスラム圏であるからやはりバザールという言い方が ぴったりである。どこの田舎町に行っても、幹線の道路沿いや道路から入り込んだ通りにバザールを見かけるし、大きな町に行くと大バザールと言われる大きなバザール地区がある。また、田舎に行くと日曜市とか水曜市とか週一度開かれる野外バザールが開かれたりしている。今回も、いろんなバザールを見学した。

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観光初日のカシュガルでは町中の日曜大バザールを見た。カシュガルはウルムチと違い、圧倒的にウィグル族の多いシルクロードのオアシス都市である。それだけにバザールでは売り手も買い手もウィグル族、売る物も皆ウィグルの物といった感じで、異国情緒たっぷりで旅人には嬉しい。衣類、鞄、絨毯、楽器、刃物、ドライフルーツ、土産物等々何でも売っている。いささか興奮した気分であちこちと見て回った。おみやげに干しぶどうとトマトのドライフルーツを買ったが安さに驚いた。

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カシュガルからヤルカンドへの移動の途中、道路脇の広場で開かれていた月曜市で途中下車をした。ここはウィグル族だけの村のバザールで、主に日用雑貨や日用衣類や野菜などが中心であった。四方どこを見渡しても地平線という大田舎のバザールは真にのどかで昔懐かしさが漂っている。私はここで孫のヒヨチャンと仁平君の土産に手編みの毛糸の帽子を言い値で買った。ちなみに、ここは白菜は8㎏で5元、トマトは1㎏で1元(14円)という世界であり、値引き交渉をする気にはなれない。

ホータンからタクラマカン砂漠を越えてクチャに至る途中のチマン村の水曜市にも偶然出会い、ここでも途中下車。ここは、前の村よりは規模も大きく人もロバも多くこれぞバザールという感じで賑わったいた。ここではナンをおみやげに買い、羊のシシケバブを1本買い旅を味わった。

冬の新彊シルクロードの旅(3)

家畜市場

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 最初の観光は、カシュガル郊外の家畜市場だった。1週間に1度開かれる日曜市だった。市場と言っても、特にそれらしい建物がある訳ではなく、だだっ広い広場に羊、山羊、牛、ロバの取引場が分かれ、また、特にセリ場のような場所はなく、売り買いは直接交渉であった。ロバの売り買いの場面を見ていたが、ロバの売り手の回りには数人の男が集まり真剣な面もちでやりとりをしており、交渉決裂か売り手は「そんな値では売れないと」いった表情でその場を一度離れたが、再び大声で呼び戻されてまたやりとりをし、ようやく交渉成立してか現金をやりとりしていた。ちなみに、ロバ一頭の値段は750元(10500円)位とのことであった。

 印象的だったのは羊だった。何十頭もが横一列に首を繋がれ、と言うことは尻も横一列に並んでいる。尻は肉好き良く丸く二つに分かれていて、女の子のお尻のようでとても可愛らしい。夏にいっぱい餌を食べて栄養分をため込み、冬に備えるとのことであった。尻は脂肪分たっぷりで、シシケバブ(串焼き肉)の場合にはこの部分と肉の部分を交互に串に刺して焼く。旅行中何度か食べたが、この脂身と肉のバランスはピッタリで文句なしに美味であった。

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 市場の一方の側には食べ物屋が並んでいる。家畜市場だけに、羊が丸裸にされたのが店の前にぶら下げられ、それを一口大に刻んで串に刺してケバブにしたり、細かく刻んで小麦粉の生地で包ん焼くサモサにしたりして売っている。当然、ナンやスープも売っている。店のおじさんやお兄さんはみんな元気で愛想がいい。カメラを向けるよポーズまでとってくれる。

観光の第一歩がこのような地元の人との好もしい出会いであり、以後政情不安のことなどすっかり忘れてしまった。

冬の新彊シルクロードの旅(2)

空港は厳重チェック

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昨日夕方、ウルムチ空港に到着。気温-19度。予想どうりの寒さ。しかし、昔スキーの時に使ったラクダの下着を着込み、予めダウンのコートも用意し、ホッカロンも準備していたので寒さ対策は万全。寒さと言うよりは乾燥した寒気にピリッと身が引き締まる感じはは悪くない。逆にこの時期、寒さのため観光はオフシーズンで、どこに行っても旅行客は我々のみで、どの有名な観光地でも我々の独占状態でこの点も悪くはなかった。

 当日の朝、ウルムチからここカシュガルの地に国内航空で来た。北京空港でもそうだったがウルムチの空港でも手荷物チェックは厳重を極め水物は目薬さへダメ。金属探知器も敏感そのもので私の場合股間にまで反応し(あるいはファスナーに反応したのか)、 頭の先から足の先までボデイーチェックを受けた。これもウィグル自治区の政情不安の現れかと納得した。そういえば、昨夜のウルムチのホテルには多数の警官が詰めていたことを思い出した。

冬の新彊シルクロードの旅(1)

憧れのシルクロード

2009年12月26日~2010年1月3日+1日

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昔「憧れのハワイ航路」という歌があったが、私にとってシルクロードは「憧れのシルクロード」であった。もう30年も前になるが、「NHK特集 シルクロード」を見ていた。砂漠を行く隊商の映像をバックに、喜多郎のシンセサイザーの音楽で始まるやつだ。 スタインやヘデインや大谷探検隊以来、外国人が入ったことのない地域というのが売りであった。加えて番組では「流砂の道 」「幻の楼蘭」「楼蘭の麗人」「さまよえろ湖 ロプ・ノール」天山山脈 コンロン山脈 タクラマカン砂漠 ウルムチ カシュガル タシケント等々の言葉や、砂漠の中の数々の遺跡や寺院石窟 ラクダやロバ バザールの賑わい、イスラムの礼拝等々が映し出された。これによって私は、すっかりエキソチシズムを掻き立てられ「憧れのシルクロード」となってしまったわけである。

 しかし、当時はまだ、自分がそこに行けるなどとは思ってもいず、せめてNHKの出版した本を読んで満足していた。

 そして、昨年7月新彊ウィグル自治区ウルムチで、漢族とウィグル族が衝突する大規模な騒乱が起きて、連日のようにマスコミで報道された。200人ぐらいが死亡したとも伝えられた。これによって、「あの憧れの土地が!」という思いと憂いが湧いてきて「行ってみよう。今行くのが一番だ!」と思い、外務省の「渡航の延期をお勧めします」との情報よりも「今行きたい」との気持ちのほうが勝り行ったものである。

 いつものことながら、いろんなものを見て聞いて食べて写真にとって、異国情緒が大いに満たされる旅となった。

九塞溝・黄龍6日間(7)

本家麻婆豆腐を食す

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前日は、夜の7時に九塞溝空港を出発して成都に戻る予定だったが、悪天候のため結局飛び立たず(というより飛び立つはずの飛行機が来ず)夜中に九塞溝の村に戻ることになってしまった。

翌朝、成都に戻り当日の帰国便までの間市内見学となった。 成都も2300年の歴史を持つ古都(蜀の都)で、そのため 数多くの史跡が残っている。 その内「武候詞」と「杜甫草堂 」を見学した。

武候詞は「三国志」で名高い蜀の英雄・諸葛孔明と劉備玄徳を祀っているところで、武候とは名軍師、諸葛孔明のことである。
そこは鬱蒼とした木々の中にあり、各建物も豪壮である。
見物客もまばらでその深閑とした雰囲気の中で、まだ読みかけで終わっている「三国志」に思いを馳せた。

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「杜甫草堂」は唐代の詩聖、杜甫を記念するために建てられた草堂である。
ここは杜甫が仮小屋を建てて質素に暮らしていた所だそうだ。
生涯貧しかったという。「国破れて山河あり 城春にして草木深し」は知っている人が多いと思う。

昼食は、四川でも老舗の四川料理店に行った。
四川料理といえば麻婆豆腐が有名である。正確には陳麻婆豆腐という。
陳というあばた顔のお婆さんが作った豆腐料理という意味だそうである。
日本でもすっかりお馴染みの料理で私も良く作るが、素材が安く作り方も簡単でぴりぴりと辛く何度食べても飽きないのがいい。
さながら日本の国民食ともいうべきカレー料理に近い。

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その辛みの中心の豆板醤は今ではどこでも売っているが、もう一つの辛みの四川山椒はまだ使ったことがない。
これは、しびれるような辛さが特徴である。
私は横浜出身で、実家に帰る時は必ず中華街に行き好きな四川料理店にいくが、その本場の町の本物の店で食べた麻婆豆腐の味はやはり格別であった。

その夜は上海で泊まり、ここでは上海料理の名物、小籠包を食べたが、かむと口の中に流れ入るアツアツのスープの味はこれまた格別であった。
花より団子、見るのもいいが食べるのもいい。これだから、旅行は止められない。

九塞溝・黄龍6日間(6)

いよいよ黄龍

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目的地へはロープウェイで行った。
標高3500メートル余りの駅で降りて、名勝の「五彩池」を目指す。
徒歩約1時間。森の中の木道を歩っていくのだが、歩っているうちに再び高山病の兆候が出てきた。
そこで、ひどくならないように出来るだけゆっくり歩くようにした。 所々に眺望が開けた所があって、そこから遠望する真っ白な連山の眺めは絶景かなであった。
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約1時間後に五彩池に着いた。
池はスカイブルーに輝いていて、思わず感嘆の声を上げてしまった。
池の手前には「黄龍寺」という古い寺があったが、その寺と池とは見事なコントラストを成していて、おそらくこれは極楽浄土を模して建立されたのではないかとさえ思われた。

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黄龍も渓流に沿って連なる大小の湖沼が観光の目玉であるが、九塞溝とは違い傾斜も急で各湖沼が棚田状に連なっているのが特徴である。
しかも、地質が黄色っぽい石灰岩から出来ているため湖沼の色が独特であり、差し込む光の強弱により青色っぽくなったり黄緑色っぽくなったりと変化する。
高山病を押しても来る価値があるというものである。

五彩池からは渓谷を下りながら連なる池を見物していくのだが、一向に頭痛のほうが治らない。
何となく足下もふらついてもいる。
いよいよ携帯の酸素ボンベを試してみることにした。

筒状のビニール製のボンベの栓を抜き口に当ててみた。
しかし、酸素の出がいかにも弱い。数分もしない内に無くなってしまった。
しかも、効能は全くなし。
おそらく、そんな物を買う人はほとんどおらず、とうに消費期限切れになっていたのではないだろうか。

おそらく今は乾季なのか、各湖沼の水が少なかったり涸れていたりしていたところがあったのは残念であった。
全部に水が溢れていたら、それはそれは感動ものであったと思う。
黄龍から九塞溝空港へ戻る途中、所々に見えるチベットの民家が気になって仕方なく、ガイドに頼んだら、ガイドが交渉に行ってくれて見せてもらうことが出来た。
そこは、日本でいう長屋門もある立派な農家であった。
母屋の周りにはタルチョが翻っていた。

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おばあちゃんからお孫さんまで一家全部で迎え入れてくれて、快く写真も撮らせてくれた。
チベット騒動で世界が湧いていた最中だったが、この親切のお陰で私はすっかりチベット擁護派になってしまった。