自由帖

2009年3月アーカイブ

クラさんの「農」のある暮らし その13

3月下旬、春本番に向って気温の変化の大きい日が続いていますが、この時期はジャガイモの植え付けの季節でもあります。連休の晴れた日に作業を行いました。

石灰をまいた畑の畝にマルチシートを張り、40センチぐらいの間隔で穴を開けます(写真①)。この穴に、適当の大きさに切った種芋を植えていきます。

 

                ①   20090321_0314.jpg

今年も「シンシア」と「インカのめざめ」の2種類のジャガイモを植え付けることにしました。

シンシア(写真②、③)は昨年から植えてみたのですが、なかなかの優れものです。まず、形が卵型なので皮がむきやすい。男爵やメークインなどで皮むきに難渋している向きには、おすすめです。それに、煮物、揚げ物、ポテトサラダとどんな料理もおいしくでき上がります。さらに、貯蔵性が抜群です。休眠が長いため芽が出にくいのです。昨年7月に収穫した我が家のシンシアですが、今現在でもほんのちょっとだけ芽が出ている状態です。いずれシンシアがジャガイモの代表格である男爵、メークインの座を脅かすのでは、というのが私の予想です。

                

                ②

20090320_0308.jpg                      ③

20090320_0303.jpgインカのめざめ(写真④)は、クリのような風味が好きで、数年前から栽培を始めました。収量が少なく、芽が出やすいのが難点ですが、なぜか私をひきつけてしまったのです。

 

                ④

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インカ続きで紹介しておきたい本があります。山本紀夫『ジャガイモのきた道―文明・飢饉・戦争』(岩波新書、2008年)です。このなかで著者は、「インカ帝国をささえた食糧基盤はジャガイモであったと考えてよさそうである」と述べています。この事も含めて、ジャガイモとアンデス、ヨーロッパ、ヒマラヤ、日本、アフリカとの関係、さらにはビタミンCやカリウムを豊富に含むなど、食糧資源としてジャガイモの持つ役割等について、多くの興味深い指摘がなされています。

奥松島の朝日と月

 

連休の朝,よく晴れたので奥松島に行ってきました。

強風が吹いていましたが,よく晴れていてすばらしい朝でした。

携帯電話のカメラでもここまで写るんですね。

                                  そごう

奥松島の日の出.JPG

奥松島の月2.JPG

パキスタン旅行(7)

悲しき世界遺産

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今回の旅行中、4つの世界遺産を訪れた。
インダス文明の華モヘンジョ・ダロの遺跡群、 ムガル朝期の歴史的建造物群や墳墓群のタッターの文化財、ムガル朝の歴代皇帝が建造したラホール城塞とシャリマール庭園、中央アジアからの遊牧民の侵入を防ぐために造った大城塞ロート・フォート。

特に、その内で私は、ヒマラヤ山系を源流とし国土を縦断してアラビヤ海にまで至るインダス川流域に発生したインダス文明最大に遺跡モヘンジョ・ダロに期待した。
しかし、結果は「やがて悲しきパキスタン」という印象が残った。

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確かにそこは、周囲4キロ四方の広大な遺跡で、同じ大きさの焼きレンガを大量に使って造られた高度に発達した古代都市で、期待どうりに驚きもし感動もした。
そして、全景を見渡す丘に発ち、往時そこに3万人もの人々が生活していたという光景を想像し、感慨にふけることも出来た。

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しかし、その一つ一つを近くで見ると印象は一変する。
多くのレンガは白い粉をまかれたような状態になっていて、その白いものが塩であり、その塩害によって、レンガは劣化してもろくなり遺跡があちこちで崩壊していたのである。
なんともやりきれないといった気分となった。

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モヘンジョ・ダロばかりではない。
タッターの建造物群でも、綺麗なイスラム紋様のタイルが風化によって剥がれていてもほとんどそのままである。
ラホール城塞やシャリマール庭園も、老朽化が激しく世界危機遺産に登録されているとのことである。

現地ガイドも、心から残念がり悲しがっていた。
そして、その一つの理由として、国家予算の72パーセントが軍事関連予算であることを上げていた。
特に、インドとの長い間の緊張関係の中では、為政者の目もなかなか文化財保護のほうまでは向かないし、その経済的余裕もないとのことであった。
悲しき現実、悲しき世界遺産である。

パキスタン旅行(6)

ブットー家の墓

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12月27日、旅行第一日目は、一年前の同日にイスラム原理主義者と思われる男の自爆テロで暗殺されたベナジール・ブットー元首相の命日であった。
そこで、見学予定のカラチの国立博物館も喪に服して閉館ということで見ることが出来なかった。

彼女の夫が現首相のサルダーリ氏であることもあると思うが、ブットー女史の威光はまだ相当であるらしい。
我々のバスにも、早々に故ブットー女史の顔写真が貼られ、弔意を表した。こうしておくと何かと都合がよいということであった。

町でも田舎でも、ブットー家一家の大きな写真が貼られている場面をよく見た。
特にモヘンジョ・ダロへの出発基地サッカルはブットー女史の郷里と言うことで、写真ばかりでなく彼女の所属政党パキスタン人民党の旗があちこちに掲げられていた。

ブットー家はこの地方の大地主だそうで、バスで4時間走ってもまだブットー家の土地が続いていると言う説明であった。
その反面、小作人が多く子供は学校にも行かずに小さい頃から農作業に就き、そのため識字率は50パーセントにも満たないとのことであった。

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モヘンジョ・ダロの帰り道、ブットー家の墓に立ち寄った。墓といってもモスクにもなっている大理石造りの大きな立派な建物であった。
中にはブットー女史を埋めた墓の上に大きな棺が置かれ、その上に赤い花びらがいっぱいまかれていた。

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彼女の親類だという女性が棺に額を当てて泣いていた。
我々が行ったとき、丁度地元の新聞記者が居て取材され写真も撮られた。
記事にすると言っていたが、どうなったか分からない。

パキスタン旅行(5)

一寸撮らせて

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11日間の旅行といっても、カラチからイスラマバードまでの長距離をバスで行くので、 そのほとんどの時間は移動に費やされる。
だから必然的に、トイレタイムでの一寸した時間、食事時の小一時間が大切な観光の時間となる。
前述もしたが、これが結構面白い。これが、地元の人と直接触れあう機会でもある。
どこへ行ってもみんなフレンドリーであることも既に述べた。

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イスラム圏では女性の写真撮影は原則タブー、本人が了解しても周囲の男性に止められることがあるなどと案内書に出ていた。
そこでそう覚悟して行ったわけだが、実際にはそのような雰囲気はほとんどなく、民族服を着た綺麗な女性の写真も何枚か撮らせてもらった。
とはいってもイスラム圏、ドライブインでも市場でも女性は圧倒的に少なかったが。

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男達や子供らは、積極的に自分らを撮してくれと親しげに接してきた。むしろ、彼らの方が日本人が珍しいらしく、我々が写真に撮られたこともあった。

パキスタンは対日感情が良いらしく、写真を含め旅行中不快な思いをしたことはなかった。有り難いことである。
ついでながら、アメリカ人は快く思われていないということであった。