自由帖

テルさんの「旅」ある暮らし: 2009年3月アーカイブ

パキスタン旅行(7)

悲しき世界遺産

20090317a.jpg

今回の旅行中、4つの世界遺産を訪れた。
インダス文明の華モヘンジョ・ダロの遺跡群、 ムガル朝期の歴史的建造物群や墳墓群のタッターの文化財、ムガル朝の歴代皇帝が建造したラホール城塞とシャリマール庭園、中央アジアからの遊牧民の侵入を防ぐために造った大城塞ロート・フォート。

特に、その内で私は、ヒマラヤ山系を源流とし国土を縦断してアラビヤ海にまで至るインダス川流域に発生したインダス文明最大に遺跡モヘンジョ・ダロに期待した。
しかし、結果は「やがて悲しきパキスタン」という印象が残った。

20090317b.jpg

確かにそこは、周囲4キロ四方の広大な遺跡で、同じ大きさの焼きレンガを大量に使って造られた高度に発達した古代都市で、期待どうりに驚きもし感動もした。
そして、全景を見渡す丘に発ち、往時そこに3万人もの人々が生活していたという光景を想像し、感慨にふけることも出来た。

20090317c.jpg

しかし、その一つ一つを近くで見ると印象は一変する。
多くのレンガは白い粉をまかれたような状態になっていて、その白いものが塩であり、その塩害によって、レンガは劣化してもろくなり遺跡があちこちで崩壊していたのである。
なんともやりきれないといった気分となった。

20090317d.jpg

モヘンジョ・ダロばかりではない。
タッターの建造物群でも、綺麗なイスラム紋様のタイルが風化によって剥がれていてもほとんどそのままである。
ラホール城塞やシャリマール庭園も、老朽化が激しく世界危機遺産に登録されているとのことである。

現地ガイドも、心から残念がり悲しがっていた。
そして、その一つの理由として、国家予算の72パーセントが軍事関連予算であることを上げていた。
特に、インドとの長い間の緊張関係の中では、為政者の目もなかなか文化財保護のほうまでは向かないし、その経済的余裕もないとのことであった。
悲しき現実、悲しき世界遺産である。

パキスタン旅行(6)

ブットー家の墓

20090315a.jpg

12月27日、旅行第一日目は、一年前の同日にイスラム原理主義者と思われる男の自爆テロで暗殺されたベナジール・ブットー元首相の命日であった。
そこで、見学予定のカラチの国立博物館も喪に服して閉館ということで見ることが出来なかった。

彼女の夫が現首相のサルダーリ氏であることもあると思うが、ブットー女史の威光はまだ相当であるらしい。
我々のバスにも、早々に故ブットー女史の顔写真が貼られ、弔意を表した。こうしておくと何かと都合がよいということであった。

町でも田舎でも、ブットー家一家の大きな写真が貼られている場面をよく見た。
特にモヘンジョ・ダロへの出発基地サッカルはブットー女史の郷里と言うことで、写真ばかりでなく彼女の所属政党パキスタン人民党の旗があちこちに掲げられていた。

ブットー家はこの地方の大地主だそうで、バスで4時間走ってもまだブットー家の土地が続いていると言う説明であった。
その反面、小作人が多く子供は学校にも行かずに小さい頃から農作業に就き、そのため識字率は50パーセントにも満たないとのことであった。

20090315b.jpg

モヘンジョ・ダロの帰り道、ブットー家の墓に立ち寄った。墓といってもモスクにもなっている大理石造りの大きな立派な建物であった。
中にはブットー女史を埋めた墓の上に大きな棺が置かれ、その上に赤い花びらがいっぱいまかれていた。

20090315c.jpg

彼女の親類だという女性が棺に額を当てて泣いていた。
我々が行ったとき、丁度地元の新聞記者が居て取材され写真も撮られた。
記事にすると言っていたが、どうなったか分からない。

パキスタン旅行(5)

一寸撮らせて

20090313a.jpg

11日間の旅行といっても、カラチからイスラマバードまでの長距離をバスで行くので、 そのほとんどの時間は移動に費やされる。
だから必然的に、トイレタイムでの一寸した時間、食事時の小一時間が大切な観光の時間となる。
前述もしたが、これが結構面白い。これが、地元の人と直接触れあう機会でもある。
どこへ行ってもみんなフレンドリーであることも既に述べた。

20090313c.jpg

イスラム圏では女性の写真撮影は原則タブー、本人が了解しても周囲の男性に止められることがあるなどと案内書に出ていた。
そこでそう覚悟して行ったわけだが、実際にはそのような雰囲気はほとんどなく、民族服を着た綺麗な女性の写真も何枚か撮らせてもらった。
とはいってもイスラム圏、ドライブインでも市場でも女性は圧倒的に少なかったが。

20090313b.jpg

男達や子供らは、積極的に自分らを撮してくれと親しげに接してきた。むしろ、彼らの方が日本人が珍しいらしく、我々が写真に撮られたこともあった。

パキスタンは対日感情が良いらしく、写真を含め旅行中不快な思いをしたことはなかった。有り難いことである。
ついでながら、アメリカ人は快く思われていないということであった。